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【2024/11/28 08:37 】 |
能見篤史
能見 篤史(のうみ あつし、1979年5月28日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
2 プレースタイル
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 背番号
3.3 タイトル・表彰
3.4 個人記録
3.5 登場曲
4 映画出演
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
兵庫県出石郡出石町出身。鳥取城北高校普通科体育コースに通い、2年夏の鳥取大会で準優勝。その後秋季県大会で優勝し、秋季中国地区大会でも4強入りしたが翌春の第69回選抜高等学校野球大会には選出されなかった。3年時は春季県大会でノーヒットノーランを達成。夏は2回戦で鳥取西高校に敗退。高校時代は川口知哉、井川慶と並んで「高校生左腕三羽ガラス」と呼ばれた。
高校卒業後は社会人野球の大阪ガスに入社したが、故障が多く熱心な大阪ガスのファンですら殆ど姿を見ることができず「幻の投手」とまで呼ばれた。2003年から少しずつ登板数を増やし、同年11月の社会人野球日本選手権大会決勝戦では日産自動車と対戦して延長11回に伊藤祐樹にサヨナラ適時打を打たれたが準優勝。2004年は後にプロでチームメイトとなる渡辺亮、久保康友らと共に第22回ハーレムベースボールウィーク日本代表に選出され、その後の日本選手権では野村克也監督率いるシダックス戦で野間口貴彦と投げ合い勝利、JFE西日本との決勝戦では3番手としてリリーフ登板したが、延長15回に決勝ソロ本塁打を打たれ2年連続準優勝。同年秋のドラフトで阪神に自由枠で入団。
プロ入り後 [編集]
2005年は即戦力の期待通り開幕一軍入りを果たすが、夏場には不調に陥り二軍降格。その後一軍に再昇格したがシーズン防御率5点台に終わった。ウエスタン・リーグでは10試合38回を投げて41奪三振、22被安打、15与四球でWHIP0.97、防御率1.42を記録。
2006年は開幕から交流戦まで膝の手術で離脱したジェフ・ウィリアムスに替わり左の中継ぎとして起用された。開幕10戦中チームは4敗したが、そのうち3敗は能見への継投失敗による敗戦投手という珍記録も生まれた。ウィリアムスが復帰すると二軍へ降格。二軍でも6試合に登板して防御率3.60と精彩を欠いた。オフにはハワイ・ウィンターリーグに派遣され、十分な成績を残した。
2007年はメジャー移籍で抜けた井川の穴埋めを期待され先発ローテーションとしてスタートしたが、4月が終わるまでに5試合で1勝3敗と結果を出せず中継ぎに配置転換。しかし、中継ぎでもほとんどの登板で安打を許す不安定な投球が続き、5月27日の千葉ロッテマリーンズ戦で1回5失点と炎上してからは二軍降格。この試合では福浦和也にチームとして3個目の死球を与え、その裏に藤田宗一の金本知憲への死球が報復とされ乱闘となるきっかけを作った。騒動を引き起こした事も重なり、技術的にも精神的にも未熟さを痛感してしばらく立ち直れなかった。その後、8月中旬に先発ローテーションとして一軍復帰すると4試合で1完投を含む3勝と好投を続けたが、9月11日に4回途中7失点でKOされると、その後2度の先発登板も5回まで投げきることができず、シーズンを終えた。二軍では7試合に登板してチームトップタイ、リーグ2位の6勝を挙げて防御率2.51、43回で37奪三振を記録、35被安打、15与四球でWHIP1.12と安定した内容だった。
2008年は中継ぎでスタートしたが、5月7日の読売ジャイアンツ戦でアレックス・ラミレスにあわや本塁打という二塁打[1]を打たれるなど成績は向上せず、11試合の登板でプロ入り後初の未勝利に終わった。二軍では29試合に登板してリーグ6位の5勝、同2位でチームトップの11セーブ、同5位の52奪三振で防御率0.83、WHIPも0.90を記録し、被安打や与四球の面でも更なる向上が見られた。
2009年は同じ左腕の岩田稔など投手陣に故障者が出た影響もあって開幕から先発ローテーション入り。6月までは打線の援護に恵まれない試合も有って負けが先行し、7月4日の東京ヤクルトスワローズ戦では5回途中4失点で敗戦投手となり、その後3試合はリリーフでの登板となる。7月19日の巨人戦で再び先発して9回を2安打12奪三振で勝利投手となった後は登板した11試合全てに先発して9勝2敗と安定した投球を続け、プロ入り後初の規定投球回到達となるリーグ9位の165回を投げ、共に同4位の防御率2.62に13勝、同2位の154奪三振といずれもチームトップの成績を記録した。同年は巨人戦で内海哲也を相手に4試合連続で投げ勝ち、広島東洋カープに対しても7試合の登板で4勝して防御率1.45と得意にした。
2010年は、開幕4戦目の広島戦から3連勝していたが、5月2日の巨人戦で走塁中に右足を痛め交代。右足楔状骨の剥離骨折と診断され、戦線離脱した。9月9日の中日ドラゴンズ戦で復帰、7回2失点10奪三振で復活を印象付けると、その後の試合は中2日~5日で登板し、9月18日の甲子園球場で行われた巨人戦で7回無失点の快投を見せ、4月24日以来の勝利を挙げた。9月29日の巨人戦では6回1失点で6勝目を挙げると共に、昨年7月から続く巨人戦7連勝を達成する[2]。阪神投手では1979年の小林繁の8連勝に次ぐ単独2位の記録である[3]。この功績が評価され、9月に自身初の月間MVPに選ばれた。 最終的には8勝無敗の成績を記録する。 10月16日のクライマックスシリーズ・ファーストステージ、巨人との第1戦に先発したが、5回3失点の内容で、敗戦投手となっている[4]。
プレースタイル [編集]

最速151km/hの速球とスライダーを軸にフォークボール、シュート、チェンジアップも交えて奪三振率の高い投球をする。普段はスリー・クォーターだが、時折腕の位置を下げてサイドスローに近い角度から投げる事もある。2008年までは四死球や被安打も多く、得点圏に走者がいる際には増加する傾向が見られた。また、サウスポーだが左打ちの打者の方が被打率が高い。
2009年シーズン序盤に「真っ新なマウンドは投げにくい。誰かが投げた後の穴が掘れている方が投げやすい。」とコメントしたが、7月頃に再度聞かれた際は「気にならなくなった。」と答えている[5]。
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【2010/11/08 20:24 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
真弓明信
真弓 明信(まゆみ あきのぶ、1953年7月12日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。引退後は野球解説者、コーチを経て、2009年から阪神タイガースの監督を務めている。
史上最強の一番打者と言われている。[要出典]
愛称は「ジョー」。アメリカに野球留学した際、アメリカ人にとって「Mayumi」は発音しづらいことから「Joe」が定着したという。『あしたのジョー』とは全く関係ないことを自著で述べている。
阪神監督になってからは「虎将」とメディアに表記されることが多い。 なお、ジョーという愛称は背番号2番の城島健司にもある。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 アマチュア時代
1.2 太平洋・クラウン時代
1.3 阪神時代
1.4 解説者・コーチ時代
1.5 監督時代
2 プレースタイル
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 背番号
3.3 タイトル・表彰・記録
3.4 年度別監督成績
4 過去の出演番組
5 出演CM
6 著書
7 参考文献
8 ディスコグラフィ
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク
経歴 [編集]

アマチュア時代 [編集]
熊本県玉名郡南関町生まれだが、小学3年生の時に福岡県大牟田市へ転居。小学6年生の時に、同じ社宅に暮らす原貢(後に読売ジャイアンツに入団する原辰徳の父)が監督を務める三池工業高校が夏の甲子園で優勝し、その優勝パレードに感動したことがきっかけで野球選手を志すようになった[1]。
柳川商業高校では若菜嘉晴と同期だった。若菜は高卒で地元の福岡に本拠地を置く西鉄ライオンズに入団し、真弓は社会人野球の電電九州に進んだ。1972年のドラフト会議で西鉄改め太平洋クラブに3位指名されプロ入りし、再び若菜とチームメイトになった。
太平洋・クラウン時代 [編集]
アメリカの教育リーグに留学した後、1975年に当時の監督江藤愼一から打撃の才能を見い出され、一軍定着を果たす。フロントはキャンプでの成果によっては解雇するつもりだったとされるが、それを聞いた江藤が「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と球団に抗議して残留となった。1978年に遊撃手のレギュラーとなり、同年はベストナインに選出。私生活では1977年のシーズン後に結婚。3人の娘を授かる。
阪神時代 [編集]
1979年に田淵幸一らとの「世紀のトレード」で若菜らとともに阪神タイガースに移籍。長打力のある1番打者として活躍し、同年5月20日にはサイクル安打を達成する。
1983年には岡田彰布の故障に伴って二塁手に転向し、打率.353で首位打者を獲得。二塁手のベストナインにも選出される。1984年も岡田が一時外野にコンバートされたことにより、そのまま二塁手のレギュラーを務めた。
1985年には再び二塁手に戻った岡田と入れ替わる形で外野手に転向。同年に打率.322、34本塁打、84打点の好成績でチームのリーグ優勝・日本一に貢献し、ベストナインにも選出された。
1988年、個人事務所として「有限会社オフィス眞弓」を設立。
1992年以降は、新庄剛志・亀山努・久慈照嘉らの台頭で代打中心に出場。
1994年には代打の切り札として17安打で30打点と驚異的な勝負強さを発揮した。翌1995年のシーズンでは、終盤からフロントと話し合い、球団は引退試合やセレモニーも用意して引退を勧めたが、真弓はこれを固辞して「年俸はいくらでもいいから、もう1年だけでもプレーさせてほしい」と懇願した。[要出典]しかし交渉は決裂し、他に獲得の意思を示した球団もなかったため、そのまま現役を引退した。
解説者・コーチ時代 [編集]
現役引退後は朝日放送・サンテレビの野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めた。
2000年に大阪近鉄バファローズの打撃コーチに就任。当時、監督の梨田昌孝、投手コーチの小林繁とともに「男前首脳陣」として話題となり、地元関西の洋菓子メーカーモロゾフのバレンタインデーイメージキャラクターにも起用された。
2002年にヘッドコーチとなる。同年8月16日の対西武戦(西武ドーム)では出場停止の梨田に代わって監督代行を務めたが[2]、2回途中で西武先発の松坂大輔をノックアウトし、この回の終了時点で近鉄が9-0とリードしていたものの、近鉄先発のジェレミー・パウエルが突然崩れ、4回終了時点で9-10と逆転を許す。7回表に吉岡雄二が同点本塁打を放つものの、その裏に松井稼頭央の2点本塁打で勝ち越され、そのまま10-12で敗れた。9点以上の差を逆転されての敗戦は史上7度目のことであった。
2004年に近鉄とオリックス・ブルーウェーブの合併に伴ってコーチを退任し、翌2005年から前述の解説に復帰した。また、一時期洋服の青山のイメージキャラクターを務めており、降板後もチラシのモデルで登場している。朝日オートセンターのCMには長く出ていて、同社でイベントがあるときは、解説者時代にもゲストとして呼ばれることがあった。
監督時代 [編集]
2008年にリーグ優勝を逃したとして辞任した岡田彰布の後任として、10月23日に阪神タイガースの監督就任を球団から要請され受諾。10月27日に正式に就任が発表された。背番号は本人の希望から太平洋入団時の2と阪神時代の7を合わせた72となり、秋季キャンプからチームの指揮に当たった。キャンプ視察などもありこの年のドラフト会議は12球団の監督の中で唯一欠席した。
就任1年目に盤石のリリーフ陣「JFK」の一角として活躍した久保田智之の先発転向、新井貴浩の一塁からのコンバート、今岡誠のファーストコンバート、ケビン・メンチの右翼手固定を行った。
先発投手に、より長いイニングを投げさせようとする傾向があり、これは登板過多のリリーフ陣がシーズン終盤に崩れて惜しくも優勝を逃した岡田監督時代の反省を踏まえての策であるが、明らかに疲れの見える投手の交代機が遅いといった批判もある。自身の誕生日でもある7月12日に自力優勝の可能性がなくなった。しかし、シーズン途中に入団をしたクレイグ・ブラゼルの活躍、後半戦は鳥谷敬、新井の復調などもあり、8カード連続で勝ち越しなど順調に勝ち星を重ね、ヤクルトの失速もあり猛烈な3位争いを繰り広げ一時3位にも立ったが、最終戦(10月9日)でヤクルトに敗れ4位となりクライマックスシリーズ出場はならなかった。監督就任時の会見で「バックネット裏から見ていて、野球というのは守りの野球が確実。投手を含めた、センターラインもそうですが、守りが重要。守れるチームが強い、日本一を狙えるチーム」と語っていたが[3]2002年以来7年ぶりとなるゴールデングラブ賞の受賞者がいなかった。投手采配はすべて投手コーチの久保康生に任せている。
ここぞと思う場面では惜しみなく代打や代走を起用する傾向がある。その反面、不測の事態が起こった場合の対応に苦心することもあった。2010年9月9日の試合で、延長10回裏にブラゼルの退場処分によって野手を使い切ったために交代する野手がいないという緊急事態が起こり、投手の西村憲を外野手として起用。なんとか引き分けに抑えた。
打線が好調で2895(球団最高のチーム打率)、3割打者5人、90打点以上5人、チーム安打は1458安打を打ち60年ぶりにセ・リーグ記録を更新した。新加入のマートンは日本新記録のシーズン214安打を打った。オールスター前は首位で折り返したが8月、9月と2ヶ月連続で負け越してナゴヤドームでは2勝10敗と大きく負け越したことが響き、ペナントレースは2位となった。
プレースタイル [編集]

1番打者でありながら打率・本塁打・打点ともにクリーンナップをはるかに凌ぐ成績を残し、1番打者の常識を根底から覆した。そのため、世界の盗塁王・福本豊とともに「史上最強の1番打者」「脅威の核弾頭」と呼ばれた。[要出典]初球を打って本塁打・長打になることが多いことも特徴であった。初回先頭打者本塁打を通算41本打っており、福本に次ぐ歴代2位の記録を持っている。堅守・俊足の選手でもあり、史上初めて3つの異なるポジション(遊撃手・二塁手・外野手)でベストナインを受賞している。また、ライトゴロも記録している。また、三塁や一塁の守備経験もある事から、ユーティリティプレイヤーの素質も兼ね備えていた。
プロ入り当初は主に守備固めとして、全盛期は中軸打者、後年は代打の切り札と様々な出場条件にもかかわらず、その全てで結果を出せる実力と人気を兼ね備えた選手であった。しかし怪我もやや多く、ライオンズ時代の1978年から11年連続規定打席に達していたが、欠場が一桁にとどまったシーズンは4シーズンだった。
1982年のシーズン中、11連勝から一転8連敗を喫し、チーム全体が重苦しい雰囲気で悪循環に陥っていた時に、移動バスの中で加藤博一とともに突然「馬鹿騒ぎ」をし、コーチが2人に謝りながら鉄拳制裁を行い、その光景が面白かったためにチームの雰囲気が一変、ようやく連敗から脱出できたというエピソードを、著書『ジョーの野球讃歌』で語っている。
ヒッティングマーチ(応援歌)の原曲は「ミッキーマウスマーチ」で、代打の時は、1度しかない打席でファンがヒッティングマーチで楽しんでほしいという意図から、真弓はコールされてから打席に入るまでの時間を遅くし、初球にも手を出さなかった。1980年代後半頃は、真弓の打席で外野スタンドのファンがこの曲に合わせて「真弓、真弓、ホームラン」と歌いながら1列になって左右に移動する光景が見られた。この動きは真弓ダンスと呼ばれたが、このダンスで甲子園の外野スタンド自体がわずかながら揺れていることが明らかになり、スタンドが老朽化していたこともあってこのダンスは自粛されることになった。なお、同時期に中日ドラゴンズに在籍したケン・モッカの応援歌にもこの曲が使用されていた。
【2010/11/08 20:23 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ドアラ
ドアラ(DOALA)は、プロ野球球団中日ドラゴンズの、コアラをモチーフにしたマスコット。背番号は1994。1994年からマスコットとしてドラゴンズの数々の試合に登場している。中日メインマスコットのシャオロン&パオロン両名の鈍重コンビのアクションを補うべく、バック宙やバック転等を披露している。
名古屋市とコアラの関係は深く、1984年(昭和59年)に初めてコアラが来日したのが名古屋市(名古屋市とシドニーが姉妹都市関係にある)であり、以来、東山動植物園では一番の人気者である。 ドラゴンズとコアラの関係は1987年からウインドブレーカーのワッペンにコアラが登場し、ホームラン人形にもコアラを使うようになった(元々はこの人形のことをドアラと呼んでいた)。その人気にあやかって1994年から登場したのが、現在のマスコットのドアラである。
目次 [非表示]
1 風貌・特徴など
2 交流関係
2.1 マスコット関係
3 パフォーマンス
4 エピソード
5 誕生から現在まで
6 メディア出演
7 著書
8 関連項目
9 脚注
10 外部リンク
風貌・特徴など [編集]

ドラゴンズマスコットのアクション担当。性別は男。年齢は「アルコールOK(被選挙権があるかどうかは不明)」歳、身長は「アジアの頂点」cm、体重は「圧倒的な存在感」kg(この3つは「ドアラのひみつ」より)[1]。頭はコアラ、胴体は細身の引き締まったヒトの形で、野球ボールのような青くて大きな丸いしっぽを有する。体色はチームカラーと同じ青色。耳はとても大きく、白く長い耳毛を生やしている。眉は太く垂れており、つぶらな瞳で、鼻は黒くて大きく、口はいつも無機質に笑っている。顔部分色のみ、薄い肌色である。
着ているユニフォームは中日選手陣と同じデザインが用いられており、背番号はデビューした年にちなんで1994。ビジター戦の際は選手と同じく青いビジターユニフォームを用いる。靴は大きく厚みのある楕円型で、色は体色と類似したドラゴンズブルー。側面に白でカタカナの「ド」をあしらったロゴがプリントされている。イベント等でスーツを着用する事があるが、その際にはしっぽを出す為にズボンの前後を逆にする。これはしっぽをしまうと死んでしまうため。ちなみにこのスーツはAOKIの「もてスリム」。
無機質に笑う顔、頭に対しスレンダーすぎる体、細い体に対して肉付きのよい尻、奇妙な仕草などが気持ち悪いと言われる一方、それがキモかわいいとしてカルトな人気がある。ドアラデーにて司会のお姉さんに「これが、かの有名な気持ちの悪いドアラの動き」と言われるところを見ると、球団側も気持ち悪いとの認識はあるようだ。
本人曰く「気弱で引っ込み思案、無口だがお調子者」とのことだが、実際には傍若無人なパフォーマンスを繰り広げ、周囲がどうであろうとも自らの存在感を存分にアピールする行動を繰り返す傾向にある。時折、逆に「棒立ちになったまま微動だにしない」といった奇行を見せることもある。
年収はパンの現物支給。主食は5枚切りのパン。愛用のシャンプーはブルガリ。使用している暖房器具は石油ファンヒーター。お笑いが好きでお笑い番組を頻繁に見るとのこと[2]。この他にも「手羽先」「コーン」は好物であるが、「味噌カツ」は苦手である。好きなゲームはスーパーファミコンの「パネルでポン」。将来の夢は「いつも寝ている生活」。
初期は顔が丸く赤みを帯び、目が小さかった。その後マイナーチェンジを2回行い、現在の顔になる。また、初期のユニフォームにはHITACHIやSUZUKIの広告が付いていた(「誕生から現在まで」の1994年の項も参照)。
「顔の造形がドラゴンズの森野将彦選手と似ている」と、一部から言われているが、ファンのみならず、コーチの川相昌弘も指摘していた[3]。さらに森野本人もNHK出演の際に、ドアラと顔が似ていることを認める発言をしており、後日、CBCラジオ『ドラゴンズワールド』のインタビューで「ドアラに似てると思われるのは(どう思っていますか)?」との問いに「嫌です。マスコットに似ているなんて意味が分からない」と含み笑いでコメントを残している。
2008年度の名古屋市営地下鉄名城線で運行しているドラゴンズトレインの車内広告で、ドアラ自身は森野のことを「ライバルだと認識している」ことが明らかになった。
交流関係 [編集]

シャオロンが現れると弟が出来た兄のような扱いを受け暫く冷遇されていたが、独特のキャラクター性や魅力あるパフォーマンスが相まって、今では絶大な人気を集めている。
中日選手からだけでなく他の球団選手、他球団マスコットからもいじられキャラとして愛されている。特に森野将彦とは仲が良いことで有名で、ベンチ前等でお互いに笑顔でじゃれあう姿が多数アップロードされている。球団公式ブログでも、よくほほえましい2ショット写真が掲載されている。中日スポーツでの不定期コラム「ドアラのつぶやき」では、「ぼくのことを可愛がってくれてる」と森野との仲のよさをアピール。AllAboutのインタビューでは自分と森野との関係を「親友」と表現した。ラジオ番組『ドラゴンズワールド』のインタビューにて、森野はドアラについて「あいつしゃべらない。マスコットの中でもプロ意識が高い」とコメントを残しており、笑顔で笑いあう2人の間で何の言語が用いられているかは現在まで謎のままである。
過去には元ドラゴンズ選手の高橋光信(現・阪神タイガース)との仲も良く、2軍に降格された高橋を何も知らないドアラがベンチを探す写真が球団公式ブログに掲載されたこともあった。他に他球団の選手(種田仁、佐伯貴弘、アレックス・ラミレス。種田は元中日だが)ともよく一緒の写真が撮られる。
好きな芸人は高田純次、球界マスコットのライバルは千葉ロッテマリーンズのCOOL(本人談)。
2008年7月のCDデビューにあたって、ライバルはジェロ、憧れの歌手は水谷豊と語った。水谷が憧れである理由としては「かっこいい」からだそうである。
故郷には伝説とされている、ゴールデンドアラがいる。外見はドアラと類似しているが、ドアラよりも眉毛が太く、耳毛は垂れ下がるほど長い。また目が赤く光り、ユニフォームと帽子に金ラメが施されているなど、さらに濃いキャラクターである。背番号はないが、背中には「MASCOT 美」(ブラックホッシーのパロディ)と書かれている。2003年9月15日~9月17日の対巨人戦に限りドアラを鍛えるべく現れ、その容姿に巨人選手等を唖然とさせた。彼を鍛え上げた後は故郷へ帰って行ったが、これ以後はドアラが絶好調のためか姿を現していない。
マスコット関係 [編集]
埼玉西武ライオンズのマスコット・ライナ は、ドアラにじゃれついたり、ドアラを追い掛け回したりと、ドアラに好意があると受け取れるパフォーマンスをしているが、一方のドアラは、そのライナのパフォーマンスには関心がないような素振りを繰り返している。筆談のトークショーにてファンからの「ライナのことをどう思っていますか」の質問には、「きにしなす」と、やはり気のない回答をしている。ドアラに好意をむき出しにしてからむライナの姿は交流戦等で頻繁に目撃されている。
東京ヤクルトスワローズのつば九郎とは同期であり、週刊ベースボールにて対談を行った事もある。つば九郎、ドアラともに筆談形式である。つば九郎はこのドアラの人気に少々嫉妬しているようで、ライバルとしてかなり対抗意識を燃やしている様子。2009年3月2日にはドアラの新たなる著書、『ドアラのへや――かくていしんこくむずかしい』の出版に合わせて初の著作である『つば九郎のおなか――しょくよくにまけました』(ISBN 978-4-569-70588-0)を出版。この中でも、ドアラとつば九郎の対談が含まれている。さらには出版を記念してのイベントにもドアラと共に参加している。
阪神タイガースのトラッキーとは非常に仲がよく、マスコット交流があるとよくパフォーマンスで張り合う。
北海道日本ハムファイターズのマスコットキャラクター、B☆Bとも仲がよくマスコット交流があると必ずといっていいほどバク転対決を行う。
広島東洋カープのマスコット・スラィリーとは、友情または親睦の証としての行動でユニフォームを脱いで裸体をドアラに見せ付けて、文字通り「裸の付き合い」を行う。
中日の天敵、読売ジャイアンツのジャビットとは良きライバルである。2009年の元日にドアラから読売グループのスポーツ報知宛てに届いた年賀状には「ジャビット君もばっちり決めてくるし、負けられません。」という宣戦布告とも取れる一文が書かれていた。しかし当のジャビットは至って冷静で、マスコット交流のときにはジャビットたちのダンスに乱入し邪魔をするドアラをジャビットがたしなめる場面も度々みられる。
横浜ベイスターズのホッシーファミリーとは、マスコット交流のときにはいろいろなネタのコントで場内を楽しませるのが恒例となっている。
競技は違うが、同じ名古屋をフランチャイズとするJリーグの名古屋グランパスのマスコット・グランパスくんとの交流も2006年以降行われており、グランパスくん一家がドラゴンズの試合に、ドアラ達がグランパスの試合をそれぞれ相互訪問している。
パフォーマンス [編集]

ナゴヤドームの3回裏の攻撃終了時、ファンサービスとしてドアラのサインボールがチアドラゴンズのバズーカ砲によりスタンドに打ち込まれる。また7回裏の攻撃終了時には1塁内野側で連続バック転の後、1回宙返りを試み、着地の良し悪しでドラゴンズの勝敗を占う(実際にこの法則を最初に発見したのはつボイノリオらしい)。成功するとチアドラの歓喜の輪ができる。失敗するとメンバーからポンポンで叩かれる。一部のメンバーが散らかしたポンポンを拾うこともある。ドアラが失敗した場合、チアドラの主要メンバー、可児千裕(愛称カニちゃん)がバック転に挑戦することがある。稀にドアラと同時にバック転する場合には、両者共に成功すると可児に歓喜の輪ができる。ただし、この場合もドアラは失敗した時とほぼ同じ仕打ちを受けるのがお約束となっている。挑戦はガチンコで行われており、失敗も芝居ではなく本気で失敗している。ちなみに、セ・パ交流戦や日本シリーズなどで相手チームのマスコットが来場した際、3塁側相手チームマスコット、1塁側ドアラでバック転対決を行う(バック転ができる相手マスコットに限られる)。ただし、最近はバック転にひねりを加える難易度の高い演技に挑むようになり、成功率が下がっている。
ドラゴンズの選手が本塁打を打つと、その喜びを表すために連続バック転のパフォーマンスを本塁の近くで行っている。試合終了後のヒーローインタビューにドラゴンズの選手が呼ばれた時には、ドアラ人形つきのマイクが向けられる。
2003年のシーズンに師匠ゴールデンドアラと出会い、数々の特訓を受ける。また、大阪プロレスでゴールデンドアラの試合を観戦中、師匠の危機に奮起し試合に乱入。見事ダブルフォールを奪い勝利する(勝利後には「ドアラーズ」のタッグ名で呼びあげられた)。これらがきっかけで、コメディアン系のファンキーな芸風となってくる。
もっともそれ以前からコメディアン系芸風の片鱗を見せており、はじけた最大の理由は2001年の星野仙一の中日監督退任だと言われる。星野は野球が真剣勝負であり、そこに悪ふざけを持ち込むことを嫌っていると言われていた[4]。ドアラ自身は2008年のAll Aboutのインタビューで「星野監督に怒られた事はない」と語る一方「おちゃらけたことは拙いだろうな、と自主規制していた」とも振り返っている。
2006年シーズン中に長机の上に横向きでうつ伏せになるなどシュール系の魅せ方にも開眼。そして、2006年シーズンオフにはグラビアアイドル級のセクシーポーズという魅せ方を会得。
2007年、オフ中の地道な仕事をこなしながら映画やアニメで忍者が雲隠れをする時の「ドロン!」ポーズを会得。この年のパフォーマンスの方向性として、志村けんを基本として、小島よしお、藤崎マーケットを取り入れている。また、時折パントマイム芸を披露するなど、引き出しの数は予想以上に多いと思われる。2008年からは「1・2・3・ドアラー!」やインパルス・堤下敦のティディベアなどを披露している。2009年にはオードリー・春日俊彰の「鬼瓦!」ポーズも披露。
宮城球場に訪問したときに東北楽天ゴールデンイーグルスのクラッチと絵心勝負をして以来、ステージでドアラの絵心を試す企画ができた。
お得意の敬礼ポーズは映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』で青島刑事が怪我をして室井の車で運ばれて行く時、道路で警備中の警察官が車に向かって敬礼をしていたシーンを参考にしたとのこと。
交流戦では積極的に他球場へ訪問している。そのために、マスコットとして本来想定外であるビジターユニフォームまで新調した。ナゴヤドーム以外の主催試合・2軍試合等も積極的に訪問。リーグ戦終盤においてはビジター戦に登場した。
エピソード [編集]

1996年の公式戦終了後にインタビューを受けた際、カメラマンから言われるままに、中の人が素顔を晒したことがある。
NHK衛星第1でドラゴンズ主催試合を中継する際には、連続バック転が実況・解説付きで完全生放送されたり、リプレイ映像としてスロー再生されることもあるが、ある解説者が「あんな大きい物を被ってバック転は大変」と発言したため、熱狂的ドアラファンからは「中日広報からNHKに対し正式な抗議を行うように」との苦情もあった。
その後J SPORTS STADIUMの中日主催試合中継でもバック転が流されるようになった。
基本的に無口だが、デニー友利に腹にパンチをかまされた際、これが思いのほか決まってしまい、「うっ」と呻き声をあげた事がある。
2005年阪神セ・リーグ優勝時、読売テレビの特番に乱入したがトラッキーに返り討ちにあってしまう。
2006年リーグ優勝時の祝勝会で、ビールに濡れた顔や手をプールの水で洗ったことから、球団の広報担当より「綺麗好きなドアラ」と評される[5]。
2007年シーズンには東京ドーム限定で、ビジター用の青のユニフォームに「DOALA 1994」のネーミングが入ったTシャツが販売された。8月の3連戦で100枚、9月には150枚が即完売になり、全国区となったドアラ人気を世に知らしめた。
2007年、日本一となった時のビールかけで、数人の選手に羽交い絞めにされながらビールを顔射されているドアラの姿がテレビで流れる(後述の#誕生から現在まで)を参照。
2007年のファン感謝デーにおいて、シャオロンチームとパオロンチームがあったにも関わらず、ドアラチームがないことについて落ち込んでいたドアラに、落合監督が「そうか、ドアラチームはオレとおまえだな」と囁き、励ました。(2007年、中日スポーツに毎週火曜日に掲載されていたドアラのつぶやき2007年最終回より)
『日経エンタテインメント!』2008年1月号誌上にて勝手にエンタ!大賞「あまりに自由過ぎるで賞」を受賞。老若男女に愛される自由なパフォーマンスが受賞理由。
瑞穂陸上競技場でのJリーグ公式戦で名古屋グランパスエイトの応援ゲストとして登場した。
2008年11月発売のアクションフィギュア「figma ドアラ ホームver.」の広告では、figmaシリーズ全体のキャッチコピー「よくうごく、キレイ。」をもじって、「よくうごく、キモイ。」というキャッチコピーが添えられている。本来はドアラの方が先に発売される予定であったが、発売延期により「トラッキー ホームver. 」と同日の発売となった。また、12月には「ドアラ ビジターver. 」も発売される。こちらの方には「よくうごく、キモイ。敵地でもフリーダム。」のコピーが添えられている。
週刊ベースボールで、つば九郎と対談を行った。ただし、ドアラ、つば九郎とも筆談形式である。
ドアラのイベントではDJドアラの「ドアラのテーマ」が使われていたが、現在はドアラでWiiゲーム内ソング「わたくしドアラです」が使われている。
誕生から現在まで [編集]

1994年
広告代理店「大広」の当時のドラゴンズ担当社員が「グラウンドでコミカルに演じるマスコットの必要性」を説いて球団に掛け合う。球団側は当初デザイン料や維持費を考慮して採用には否定的だったが、ユニフォームにスポンサーを付けるなどの条件付きで認められた。その結果として「ドアラ」が誕生した[6]。なお、ドアラという名前はホームラン人形(コアラのぬいぐるみ)として以前より存在していた。
誕生にかかわる設定は変転している。『中日スポーツ』2006年10月13日付ではドアラ自身の言葉として「ナゴヤ球場で拾われて」という一文があった。しかし『ドアラのひみつ』では一転して「捨てコアラなんて失礼な」と否定している。このため同書の奥付にあるドアラの経歴は「ナゴヤ球場に捨てられていたところを拾われてマスコットになったと、本人が語った事もある真相はナゾ」としている。
1997年
ナゴヤドームへの本拠地移転と新マスコット「シャオロン」登場に合わせリニューアル。ユニフォームにも、それまでのスポンサーロゴに代わり背番号「000」が付く。
2004年
ドラゴンズのユニフォーム新調に合わせ二度目のリニューアル。背番号が「000」から「1994」に変更。
2005年
プロ野球交流戦開始に伴い、対パシフィック・リーグ所属球団戦の遠征に帯同。12球団のマスコットのうち、唯一交流戦で全球場を訪問。
8月16日の対巨人戦で、落雷によってナゴヤドームの照明の50%が消えた際、復旧までの約30分間バック転等のパフォーマンスをし続けたという伝説を作る。その後球団から「お客様を飽きさせなかった」という理由で報奨金が出たとされる。(報奨金については翌週のドラゴンズ情報ラジオ番組でのオンエア情報)
2006年
5月交流戦開幕に合わせ、ビジター用ユニフォーム新調。
ゆかたデーには浴衣姿で現れる。バック転をするため裾をまくり上げ、いわゆる「岡っ引スタイル」でドームを沸かせる。
8月25日の対横浜戦では、ドアラデーとして「今日は俺が主役」のたすきをかけ登場したドアラ中心のイベントを行ったことからも、絶大な人気があることが分かる。
フルキャストスタジアム宮城では、仮面ライダーショーに飛び入り参加して、ショッカーをやっつける。「自分がこんなに強いなんて、自分でも知らなかった」(本人談)。
東海テレビナイター中継3時間スペシャルにて、DMVP(ドアラが決めるMVP)に自分を選ぶ。
敵地・東京ドームで落合監督のリーグ優勝の胴上げに参加。また、マスコットながら、ビールかけにポンチョを着て参加。
日本シリーズ(対北海道日本ハムファイターズ)の札幌ドーム3連戦に同行するも、連敗により1勝4敗で悲願の日本一ならず。ベンチ裏で落ち込み、ファイターズガールに慰められる。
ラスベガスへの優勝旅行には参加せず。
2007年
8月10日の子供たちを前にした練習時においても「お手本」を見せるはずが自由で気さくなところが炸裂し、チア・ドラゴンズの村野菜櫻にさんざん説教されている。そのあまりの自由奔放ぶりに、8月12日のD-STAGEショーにおいてたまりかねた村野が矯正を試みるも失敗。かえって暴走するという惨事を招く。その後もおかまいなしに自由奔放なパフォーマンスを展開し、シーズン終盤ついに村野を「もういっか」と降参させた。
8月19日、第二回ドアラデー開催。ドアラ自身が脚本・演出を担当したヒーローショーでは、マスコットとは思えないような華麗な殺陣を披露する。
11月1日、53年ぶりの日本一を果たしたビールかけに昨年同様ポンチョを着て参加。途中で選手や関係者に羽交い絞めにされながらビールを浴びせられる様がTV中継で放送された。また一部テレビ局の優勝特番のレポーターからコメントを求められた。
アジアシリーズ優勝後、『中日スポーツ』の紙面を使い アジア王・ドアラに即位したことを宣言する。
11月12日に発売された『タウンワーク』の表紙を飾る。なおタウンワークのキャラクター「JoBooB」もドラゴンズのユニフォームを着用し、ドラゴンズのロゴ「CD」が書かれた扇子を手に踊っている挿し絵が載った。
Yahoo!で行われた球団マスコット人気ランキングで見事1位を獲得した。[7]
12月にはラジオ番組『トヨタ うわさの調査隊』でもドアラ人気が紹介された。[8]
CM出演しているアピタ・ユニーで特製ドアラマグカップ(3種類)が作られ、12月に愛知・岐阜・三重・長野・奈良の店舗限定で買い物客にプレゼントした。ちなみに「王様ドアラ」「殿様ドアラ」などのデザインがある。
2008年
アピタ・ユニーの正月セールに売り出された「ドラ福袋」には「ドアラと行く沖縄キャンプ激励ツアー」「トヨタ・ポルテドアラエディション(抽選販売)」が登場。ドアラと行く沖縄キャンプ激励ツアーには66人の定員に対し2,000人以上が応募した。(2008年2月29日放送おもいッきりイイ!!テレビより)
1月2日にナゴヤハウジングセンター日進梅森会場(愛知県日進市)にてトークショーを開催した。この模様は翌日付の『中日スポーツ』1面を飾り、記事のリードには「前代未聞のトークショー」と書かれた。
2月22日、『ドアラのひみつ――かくさしゃかいにまけないよ』(ISBN 978-4-569-69823-6)を出版。
3月、ナゴヤドームの外野看板にドアラのイラスト(レフト側)が登場。なお同時にシャオロン&パオロンのイラスト(ライト側)も登場した。
このシーズンから公式戦のイニング間のショートプログラムとしてドアラがスタンド・フィールド内のどこからか登場する「ドアラにおまかせ」が始まった。しかし昨今のあまりのドアラ人気のため、観客が殺到する恐れがあることから開幕3連戦後にプログラムを休止すると一度発表されたが、登場エリアをグラウンドなど安全なエリアに限定するなどして継続する事が決まった。
5月26日、『公式ドアラ写真集 ドアラ☆チック』(ISBN 978-4-569-70098-4)を出版。
7月23日、CDミニアルバム『ドアラのテーマ』、およびDVDソフト『ドアラのすべて』を発売。
8月31日、第三回ドアラデー開催。スペシャルステージでは、昨年倒した悪の親玉?との再対決が行われた。
9月12日、DVDソフト『ドアラの休日 げんじつとうひ、してみました』を発売。
10月27日、毎年恒例の球団カレンダーとは別に2009年版ドアラカレンダーが発売された。
11月1日、アクションフィギュア『figma ドアラ ホームVer.』を発売。12月には『ビジターVer.』も発売された。
11月21日、『中日スポーツ』のウェブサイトに設けられた特設コンテンツを書籍化した『ドアラの九州旅日記』を出版。
2009年
3月2日、『ドアラのへや――かくていしんこくむずかしい』(ISBN 978-4-569-70587-3)を出版。
4月2日、任天堂Wii用ゲームソフト「ドアラでWii」を発売。
6月29日、JR東海の「九州行くなら新幹線」キャンペーンに伴い、九州親善大使に勝手に就任した。
7月28日、韓国観光公社から「韓国観光名誉広報大使」の委嘱を受ける。
7月29日、韓国のソウル・蚕室野球場で、中日の友好球団・LGツインズの試合の始球式を行う。
メディア出演 [編集]

新聞・TV・ラジオ・CM・ブログ・出版本
アピタ・ユニー-「ドラゴンズ朝市」開催告知TVCM等。なおこのCMは、ドラゴンズとユニーがタイアップ企画を実施し始めた2004年頃から出演している。2007年度までは脇役的扱いだったが、2008年春からのCMで主役となる。また、優勝や日本一決定時に放送するCMでは、涙を流すドアラが映されている(恐らくCGによる合成)。この他、ドラゴンズ応援番組などに突如出演することがある。なお出演したときも、ナゴヤドームで見るドアラと変わらないテンションである。
2008年3月31日から9月途中まで東海ラジオ放送のガッツナイター最前線・月曜日にドアラが初のレギュラー出演するコーナーが登場した。但しドアラは毎回メールを通じての出演となる。第1回目はドアラの近況報告と、ナゴヤドームで今季から行う予定だったドアラにおまかせがドアラ人気により安全面を考慮して行われていないことと、8回のバック転が成功していないというドアラの悩みを紹介した。2回目以降からはリスナーから寄せられた悩みについてドアラが答えていた。
ドアラのつぶやき - 中日スポーツでプロ野球公式戦期間限定連載(基本的に火曜日掲載)。2007年4月3日付から開始。試合中にグランドやベンチに入ることが可能なドアラが、試合中に気づいたこと、水面下の努力や悩みなどを、中日ドラゴンズ・広報担当の石黒哲男がドアラに代わって伝えるというもの。携帯サイト「ドラゴンズ情報」でバックナンバーの閲覧が可能。
Dragons 中日ドラゴンズ公式ブログ - マスコット情報として、ドアラの画像がほぼ連日のように多数掲載されている。ドラゴンズ情報がメインではあるが、「ドアラの情報が一番多いかも」というスタンスで運営が続けられている。
ドアラのひみつ/ドアラのへや - PHP研究所刊。前者(ISBN 978-4-569-69823-6)は2008年2月、後者(ISBN 978-4-569-70587-3)は2009年3月発売。球界関係者による著作は多岐に渡るが、マスコット自ら著作を発表することは極めて異例といえる。「本はあくまで通過点。目指すはマスコット界のトップです。僕の力でナゴヤドームを満員にしたい」(『ひみつ』刊行時本人談)。出版元は『ひみつ』刊行当初、初版を7,000部発行すると発表したが、ファンから「もっと増刷して欲しい」との要望が多数寄せられ(中日スポーツによる)、その後初版を70,000部に増刷した(2008年2月14日の中日ドラゴンズ公式ブログより)。2008年1月下旬には楽天ブックス、Amazon.co.jp、セブンアンドワイの三大ネット書店の予約ランキング1位を獲得した(『ハリー・ポッターと死の秘宝』を抑えての1位[9])。発売後も売れ行きが好調だったため、50,000部の増刷を行なった。出版元は名古屋タイムズの取材に対し「球団公式ブログに情報が掲載され多くの問い合わせがあり、ドアラの本を出版することに不安を感じていた上司も『売れるんじゃないか』と期待しています。出版業界でヒットといわれる5万部以上売れてほしい」(2007年12月21日付名古屋タイムズより一部参考&引用)と答えている。
ドアラ☆チック - 中日新聞出版開発局編著・PHP研究所刊(ISBN 978-4-569-70098-4)。2008年5月26日発売。ドアラの公式写真集。ナゴヤドームや遠征でのパフォーマンス光景などのほか、ドアラの生い立ちや「ドアラのつぶやき」のダイジェストなどが収録されている
ザ☆ネットスター!4月号(2008年4月5日放送)では、現在インターネット上で脚光を浴びる存在として紹介され、ドアラ本人もゲスト出演[10]。SOS団の部室を模したセットの外側から擦りガラスの窓を叩いて突如登場し、喜屋武ちあきら出演者を大いに驚かせての登場となった(出演者用の台本のみ、ドアラ出演については一切触れられていなかった)。質問コーナーでは、「シャオロンとパオロンのことはどう思っている?」という質問に対して「仕事なかま」、「妙な動きをするのは何故?」という質問に対しては「いたってマジメですけど」と回答。また、同じくゲストの金田朋子からは、「凄く低姿勢」「腰が柔らかい」「遅くにも花が咲いて良かったですね」と独特の評価を下されている。ただし、踊りを披露した時、そのクネクネとした動きには難色を示された。
2008年7月23日にはキングレコードから「ドアラのテーマ」というCDのミニアルバムを発売。「DJドアラ」としてCDデビューを果たす。本アルバムには「ドアラのテーマ」を4種類にアレンジしたものに加え、ドアラのリクエストで「おおきなくりのきのしたで」がボーナストラックとして収録されている。[11]。
同日、DVDソフト『ドアラのすべて』(発売元・CBC、販売元・ビクターエンタテインメント)を発売。
2008年9月12日にはメディアファクトリーからDVDソフト『ドアラの休日 げんじつとうひ、してみました』が発売。プロデュース・演出・出演全てをドアラが担当し、タイでのロケーション映像も収録されている。
セガから発売中のゲームソフトぷよぷよ7「みんなのぷよ顔CM-ドアラ篇-」(2009年7月 - )に出演。ぷよ暦は15年だと言う。
2009年7月、愛知トヨタ自動車のキャンペーンキャラとしてドアラを起用。
2009年8月30日投票の第45回衆議院議員総選挙において、愛知県選挙管理委員会がドアラを広報キャラクターとして起用。[12]。
2010年7月11日投票の第22回参議院議員総選挙において、愛知県選挙管理委員会がアイドルグループ・SKE48と共にドアラを広報キャラクターとして再び起用。[13]。
イベントなど
2008年1月2日に愛知県日進市のナゴヤハウジングセンター日進梅森会場にて「中日ドラゴンズ石黒広報トークショー&ドアラもやってくる!」が開催され、ドアラへの質問イベントがホワイトボードを使った筆談で行われた。これによりドアラの年俸や主食、使用しているシャンプーや好きな芸人、2008年の抱負など多数の非公開情報が公開される。同イベントは午前の部・午後の部とあわせ、延べ1,700人が訪れた。当日は中日スポーツ(翌日にはトップ記事であった)のほか、午後の部は日本テレビの取材クルーも来ていた。
同年11月1日から11月3日までジェイアール名古屋高島屋にて期間限定の「ドアラカフェ」がオープン。毎日400枚限定の整理券は開店後数分でソールドアウトした。[14]。
2009年2月22日に中京大学文化市民会館オーロラホールにて、声優・歌手の田村ゆかりのライブ「LOVELIVE 2009 *Dreamy Maple Crown*」が開催され、特別ゲストとしてドアラが登場して、自らもドアラの物真似をする田村自身も驚きを隠せず興奮していた[15]。
【2010/11/08 20:22 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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関ヶ原の戦い [編集]
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。如水は同年12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。この頃、如水が吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって大乱が起きると予想していたことを窺わせる。
慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。
中津に残っていた如水も、家康方(東軍)として行動した[3]。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、兵力の大半は長政が率いていたため如水は金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、9千人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した[4]。道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した(石垣原の戦い)。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。
その後、如水は西軍に属した太田一吉の臼杵城、毛利勝信の小倉城などの諸城[5]を落としていった[6][7]。国東半島沖の豊後水道付近では、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(島津と同行していた立花宗茂と別れた後のことである)焼き沈めている。10月には、加藤清正とともに柳川城を攻め、立花宗茂を降している。そして11月に入り加藤、立花、鍋島勢を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。
晩年 [編集]
関ヶ原の合戦の後、家康から勲功第一として長政が筑前国名島(福岡)52万3000石への加増移封となった。その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。
慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。
人物 [編集]

竹中重治(半兵衛)と共に秀吉の双璧と謳われ、「両兵衛」・「二兵衛」と称された。
孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。
築城の名手として知られ、居住した中津城や福岡城の他、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城などに縄張りや助言を行った。
隠居後の号である如水とは、文字通り水の如くの清らかさや柔軟さを人生訓として用いた一方、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書のジョスエ(Josué)も引用しているとされる[8]。
城攻めの才能に共通点がある一方で、孝高は人を害する事は好まず、また魔女狩りのように寺社仏閣を害することもなく、晩年は再建に努めた大宰府天満宮内に草庵を構えている。
倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げる、城には天守閣を築かず矢倉で代用するなどで蓄財に励んだ。一方で関ヶ原の戦いで兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した(名将言行録)。
虎視眈々と天下を狙う野心家として描かれることが多いが、実際には主君を裏切ったことは一度もない。小寺政職は「裏切った」のではなく「裏切られた」のであるし、関ヶ原の合戦の際の徳川家康に関しても2人は同じ豊臣家の家臣であって主従ではなく建前上は同じ東軍であったから、敵対すらしていない。坂口安吾は「天才ではあるが、ただの戦争マニアであって野心は二流」と評している。
逸話 [編集]


この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2010年10月に貼り付けられました。

この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年10月に貼り付けられました。
荒木村重謀反のとき、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、村重方に寝返ったからだと判断し、人質として預けられていた黒田長政(松寿丸)を殺害するように命じた(村重と一緒に主君の小寺政職も裏切った事がこの疑念を助長している)。しかし竹中重治(半兵衛)は密かに長政を匿った。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。
秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に、己の座をも脅かしかねないものとして恐れたという。
本能寺の変で織田信長が死去したとき、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後孝高の智謀を恐れるようになったという。
『名将言行録』には「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」と記されている。
秀吉が多くの功績を立てた孝高に対して、大坂から遠く離れた豊前の中津でわずか12万5000石(検地後に17万石)しか与えなかった(加藤清正・福島正則ら他の子飼い大名と比べると小封と言える)のも、それを示していると言われる。
秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねた。家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、働き盛りの44歳の年齢で隠居し長政に家督を譲った。
文禄4年(1594年)の伏見の大地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。
小早川隆景とは仲がよかったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭がよく、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない。」と指摘した。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった。」と嘆じたという。もっとも腹蔵ない友人かというとそうでもなく、隆景は死の直前に「筑紫大名(如水のこと)が休息地を求めても貸すな」と周囲に諭している。
中津市の合元寺には、中津城内に旧領回復を目指して一揆を起こした城井鎮房が謀略結婚により呼び寄せられた際、多くの城井家臣が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという伝承がある。庫裏(くり)の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったと言う説もあり、城井家臣誅殺の悲劇性が赤壁と結びついて上記のような伝説を生んだ可能性もある
京都の聚楽第邸内の屋敷は千利休と隣り合い、茶道を学んでいる。
旧主の小寺政職の嫡男の小寺氏職を庇護したため、小寺氏は存続する事となった。
賤ヶ岳の七本槍に倣い、自分の家臣から24人の精鋭を選出して黒田二十四騎と呼んだ。そして、この24人の中でも更に優れた後藤基次や母里友信など8人を黒田八虎とした。
関ヶ原の合戦の後の長政による、家康は「我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ」と3度手を取りの感謝したという報告に対し、「何故空いた手で刺さなかった」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが後世の創作ともされ、現在のところ最も古い記述は大正時代の『黒田如水傳』までである。
関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある明石全登を、弟・直之の元で庇護したとされる。
筑前国福岡の地名は元は福崎であり、如水が祖父黒田高政の代から関わりが深く洪水で壊滅した、備前国福岡 (瀬戸内市)の地名にちなみ変更された。
晩年は家臣に対して冷たく振舞ったとされる。これは殉死者を出さないためとも、当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためとも言われている。


黒田藤巴紋
遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。
安楽寺天満宮(太宰府天満宮)復興の祖といわれ、境内には茶の湯で使用した「如水の井戸」が残っている。
黒田如水の遺品 [編集]

如水が使用したと伝わる遺品が現在も各地に残っている。愛用した兜「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」は、如水が死の間際に家臣である栗山利安にこれを贈っている[9]。この兜は後に起こった黒田騒動にて利安の子である栗山利章が盛岡へ流された後、盛岡藩主へ献上された[9][10]。現在この兜は同地にある盛岡市中央公民館に保存されている[9]。なお、この兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、永禄10年(1566年)、志方城の城主櫛橋伊定から贈られた兜である[11]。
如水所有の刀のうち数点も現在、福岡市博物館に保管されている。
刀 金象嵌銘「長谷部国重 本阿(花押)黒田筑前守」(名物圧切(へしきり)長谷部)(国宝)[12][9]
天正3年(1575年)7月、美濃国岐阜城にて織田信長と謁見した際に信長より贈られた。大磨上無銘で、本阿弥光徳が山城国の刀工長谷部国重の作と極め、茎(なかご)に金象嵌銘を施す。金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が付属する。
刀 備前長船祐定(安宅切)[13][14][9]
天正9年(1581年)11月、四国攻め#織田政権の四国進出の際に淡路国にて安宅河内守(安宅清康かあるいは安宅貴康)を攻めた折に安宅河内守を討ち取った時に使用したとされている。外装の金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が重要文化財に指定されており、金具類の作風から埋忠明寿の監修による製作と考えられている。中身は末備前の長船祐定の数打ち物で、茎に「あたき切」と金象嵌がある。
太刀 無銘一文字(名物日光一文字)(国宝)[15][16]
天正18年(1590年)の小田原の役の際に、降伏を勧めるために小田原城へ派遣された折に北条家当主の北条氏直より贈られた。葡萄文蒔絵刀箱(ぶどうもんまきえかたなばこ)が付属する。
また、小田原の役の降伏交渉の際に北条氏直から歴史書の『吾妻鏡』と法螺貝の北条白貝も如水に贈られ[16]、『吾妻鏡』は国立公文書館に[17]、北条白貝は福岡市美術館に保存されている[18][19]。
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踊る官兵衛
黒田 孝高 / 黒田 如水(くろだ よしたか / くろだ じょすい)は戦国時代、安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名である。豊前国中津城主。孝高は諱で通称の「官兵衛」並びに出家後の「如水」の号で有名である。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 出身
1.2 播州時代
1.3 織田家臣時代
1.4 豊臣家臣時代
1.5 関ヶ原の戦い
1.6 晩年
2 人物
3 逸話
4 黒田如水の遺品
5 関連作品
5.1 参考文献
5.2 小説
5.3 漫画
5.4 音楽
5.5 テレビドラマ
5.6 ゲーム
6 脚注・出典
7 関連項目
8 外部リンク
生涯 [編集]

出身 [編集]
黒田氏は、『寛政重修諸家譜』などによれば近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の武家出身とされるが定かではない。孝高の祖父・黒田重隆の代に播磨に入り、御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた西播最大の大名小寺政職に仕えた。政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺の名字を名乗らせた。
播州時代 [編集]
天文15年11月29日(1546年12月22日)、職隆の嫡男として姫路に生まれる。永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。永禄5年(1562年)、小寺政職の近習となる。この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。永禄7年(1564年)、浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ夫らとともに討たれる。
永禄10年(1567年)頃、孝高は父職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。永禄12年(1569年)、赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、300の兵で奇襲攻撃を仕掛け撃退した(青山・土器山の戦い)。
天正元年(1573年)、小寺氏など播磨の大名たちは、浅井長政を討ち、将軍義昭を追放し、畿内で勢力を拡大する織田信長と山陰・山陽に勢力を張る毛利輝元の2つの大勢力に再び挟まれることになった。天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の才能を高く評価していた孝高はいち早く主君・政職に織田家への臣従を勧め、羽柴秀吉の部下であった縁者をつてに岐阜城で信長に謁見。さらに近隣勢力も説得し、政職、別所長治、赤松広秀らを謁見させた。
天正4年(1576年)、亡命した将軍義昭を抱える毛利は小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を5,000の兵で攻め込ませるが、英賀に上陸したところを孝高は500の兵で攻撃し退ける。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。天正5年(1577年)の秋、信長は(信貴山城の戦いで)松永久秀を討伐した後に、羽柴秀吉に命じて播磨に進駐させた。孝高は居城である姫路城を秀吉に提供し、一族を父の隠居城である飾東郡の国府山城(甲山(98m))に移らせた。
織田家臣時代 [編集]
ところが天正6年(1578年)、播磨の大勢力である三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻し、これに対して信長が上月城の戦いから山中幸盛らを残し軍を撤退させると、それらに他の播磨の勢力は大きく動揺した。さらに織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。
このとき、主君の政職も呼応しようとしたために、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に捕縛されてしまった。1年後、有岡城は落城し孝高は家臣の栗山利安によって救出されたが、劣悪な環境の土牢に長期に渡って押し込められていたため左脚の関節に障害が残り、歩行がやや不自由になったと言う(『黒田如水傳』)。 このため、以後は合戦の指揮も馬上ではなく輿に乗って行うようになった。
天正8年(1580年)、秀吉は難攻の末にようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。村重の謀反の際、主君の小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている[1]。孝高は信長から播磨国の山崎に1万石を与えられ、秀吉の与力となって参謀として活躍するようになる。
天正9年(1581年)、秀吉は因幡の鳥取城を兵糧攻めで落城させた。策略により若狭などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。
また天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる[2]。
豊臣家臣時代 [編集]
高松城攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦し、光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる。山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。
天正11年(1583年)の秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。
天正12年(1584年)の前年より大坂城の縄張りに当たっていたが、小牧・長久手の戦いの時期には、外交に手腕を発揮し毛利氏と宇喜多氏の国境線を確定し、実質的に秀吉配下に加える。留守居役を務めていた長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。
天正13年(1585年)には羽柴秀長を総大将とする四国攻めに、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。
天正14年(1586年)、従五位下勘解由次官に叙任された。
天正15年(1587年)、九州の役では毛利氏などを含む羽柴秀長の軍勢の軍監として島津義久の軍勢と戦い、戦勝に大きく貢献している。九州平定後の6月、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡、およそ12万5000石(太閤検地後17万石)を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。しかし、7月に佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも城井鎮房・野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応する。長政・後藤基次らが鎮圧に一旦は失敗するが、その後、孝高はこれを鎮圧し和議・婚姻を結ぶ。しかし秀吉は国人衆を許さず、翌年4月には城井氏らを謀殺することとなった。
天正11年から13年頃に、孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、この天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。秀吉の側近である孝高の行いは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことがルイス・フロイスの書簡から窺える。
天正17年(1589年)、家督を嫡男・長政に譲って隠居の身となり、「如水軒」と号した(※これ以降は如水と記述する)。
家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原の役では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。このとき、北条氏直から日光一文字の名刀を与えられている。
文禄元年(1592年)から秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れなかった。和式城郭の縄張りや、第二次晋州城攻防戦において基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、文禄2年(1593年)には五奉行の石田三成との間に確執を生じ、秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家している。
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