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能見 篤史(のうみ あつし、1979年5月28日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 [非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り前 1.2 プロ入り後 2 プレースタイル 3 詳細情報 3.1 年度別投手成績 3.2 背番号 3.3 タイトル・表彰 3.4 個人記録 3.5 登場曲 4 映画出演 5 脚注 6 関連項目 7 外部リンク 経歴 [編集] プロ入り前 [編集] 兵庫県出石郡出石町出身。鳥取城北高校普通科体育コースに通い、2年夏の鳥取大会で準優勝。その後秋季県大会で優勝し、秋季中国地区大会でも4強入りしたが翌春の第69回選抜高等学校野球大会には選出されなかった。3年時は春季県大会でノーヒットノーランを達成。夏は2回戦で鳥取西高校に敗退。高校時代は川口知哉、井川慶と並んで「高校生左腕三羽ガラス」と呼ばれた。 高校卒業後は社会人野球の大阪ガスに入社したが、故障が多く熱心な大阪ガスのファンですら殆ど姿を見ることができず「幻の投手」とまで呼ばれた。2003年から少しずつ登板数を増やし、同年11月の社会人野球日本選手権大会決勝戦では日産自動車と対戦して延長11回に伊藤祐樹にサヨナラ適時打を打たれたが準優勝。2004年は後にプロでチームメイトとなる渡辺亮、久保康友らと共に第22回ハーレムベースボールウィーク日本代表に選出され、その後の日本選手権では野村克也監督率いるシダックス戦で野間口貴彦と投げ合い勝利、JFE西日本との決勝戦では3番手としてリリーフ登板したが、延長15回に決勝ソロ本塁打を打たれ2年連続準優勝。同年秋のドラフトで阪神に自由枠で入団。 プロ入り後 [編集] 2005年は即戦力の期待通り開幕一軍入りを果たすが、夏場には不調に陥り二軍降格。その後一軍に再昇格したがシーズン防御率5点台に終わった。ウエスタン・リーグでは10試合38回を投げて41奪三振、22被安打、15与四球でWHIP0.97、防御率1.42を記録。 2006年は開幕から交流戦まで膝の手術で離脱したジェフ・ウィリアムスに替わり左の中継ぎとして起用された。開幕10戦中チームは4敗したが、そのうち3敗は能見への継投失敗による敗戦投手という珍記録も生まれた。ウィリアムスが復帰すると二軍へ降格。二軍でも6試合に登板して防御率3.60と精彩を欠いた。オフにはハワイ・ウィンターリーグに派遣され、十分な成績を残した。 2007年はメジャー移籍で抜けた井川の穴埋めを期待され先発ローテーションとしてスタートしたが、4月が終わるまでに5試合で1勝3敗と結果を出せず中継ぎに配置転換。しかし、中継ぎでもほとんどの登板で安打を許す不安定な投球が続き、5月27日の千葉ロッテマリーンズ戦で1回5失点と炎上してからは二軍降格。この試合では福浦和也にチームとして3個目の死球を与え、その裏に藤田宗一の金本知憲への死球が報復とされ乱闘となるきっかけを作った。騒動を引き起こした事も重なり、技術的にも精神的にも未熟さを痛感してしばらく立ち直れなかった。その後、8月中旬に先発ローテーションとして一軍復帰すると4試合で1完投を含む3勝と好投を続けたが、9月11日に4回途中7失点でKOされると、その後2度の先発登板も5回まで投げきることができず、シーズンを終えた。二軍では7試合に登板してチームトップタイ、リーグ2位の6勝を挙げて防御率2.51、43回で37奪三振を記録、35被安打、15与四球でWHIP1.12と安定した内容だった。 2008年は中継ぎでスタートしたが、5月7日の読売ジャイアンツ戦でアレックス・ラミレスにあわや本塁打という二塁打[1]を打たれるなど成績は向上せず、11試合の登板でプロ入り後初の未勝利に終わった。二軍では29試合に登板してリーグ6位の5勝、同2位でチームトップの11セーブ、同5位の52奪三振で防御率0.83、WHIPも0.90を記録し、被安打や与四球の面でも更なる向上が見られた。 2009年は同じ左腕の岩田稔など投手陣に故障者が出た影響もあって開幕から先発ローテーション入り。6月までは打線の援護に恵まれない試合も有って負けが先行し、7月4日の東京ヤクルトスワローズ戦では5回途中4失点で敗戦投手となり、その後3試合はリリーフでの登板となる。7月19日の巨人戦で再び先発して9回を2安打12奪三振で勝利投手となった後は登板した11試合全てに先発して9勝2敗と安定した投球を続け、プロ入り後初の規定投球回到達となるリーグ9位の165回を投げ、共に同4位の防御率2.62に13勝、同2位の154奪三振といずれもチームトップの成績を記録した。同年は巨人戦で内海哲也を相手に4試合連続で投げ勝ち、広島東洋カープに対しても7試合の登板で4勝して防御率1.45と得意にした。 2010年は、開幕4戦目の広島戦から3連勝していたが、5月2日の巨人戦で走塁中に右足を痛め交代。右足楔状骨の剥離骨折と診断され、戦線離脱した。9月9日の中日ドラゴンズ戦で復帰、7回2失点10奪三振で復活を印象付けると、その後の試合は中2日~5日で登板し、9月18日の甲子園球場で行われた巨人戦で7回無失点の快投を見せ、4月24日以来の勝利を挙げた。9月29日の巨人戦では6回1失点で6勝目を挙げると共に、昨年7月から続く巨人戦7連勝を達成する[2]。阪神投手では1979年の小林繁の8連勝に次ぐ単独2位の記録である[3]。この功績が評価され、9月に自身初の月間MVPに選ばれた。 最終的には8勝無敗の成績を記録する。 10月16日のクライマックスシリーズ・ファーストステージ、巨人との第1戦に先発したが、5回3失点の内容で、敗戦投手となっている[4]。 プレースタイル [編集] 最速151km/hの速球とスライダーを軸にフォークボール、シュート、チェンジアップも交えて奪三振率の高い投球をする。普段はスリー・クォーターだが、時折腕の位置を下げてサイドスローに近い角度から投げる事もある。2008年までは四死球や被安打も多く、得点圏に走者がいる際には増加する傾向が見られた。また、サウスポーだが左打ちの打者の方が被打率が高い。 2009年シーズン序盤に「真っ新なマウンドは投げにくい。誰かが投げた後の穴が掘れている方が投げやすい。」とコメントしたが、7月頃に再度聞かれた際は「気にならなくなった。」と答えている[5]。 PR |
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