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【2024/11/28 09:23 】 |
踊り507
関ヶ原の戦い [編集]
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。如水は同年12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。この頃、如水が吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって大乱が起きると予想していたことを窺わせる。
慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。
中津に残っていた如水も、家康方(東軍)として行動した[3]。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、兵力の大半は長政が率いていたため如水は金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、9千人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した[4]。道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した(石垣原の戦い)。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。
その後、如水は西軍に属した太田一吉の臼杵城、毛利勝信の小倉城などの諸城[5]を落としていった[6][7]。国東半島沖の豊後水道付近では、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(島津と同行していた立花宗茂と別れた後のことである)焼き沈めている。10月には、加藤清正とともに柳川城を攻め、立花宗茂を降している。そして11月に入り加藤、立花、鍋島勢を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。
晩年 [編集]
関ヶ原の合戦の後、家康から勲功第一として長政が筑前国名島(福岡)52万3000石への加増移封となった。その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。
慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。
人物 [編集]

竹中重治(半兵衛)と共に秀吉の双璧と謳われ、「両兵衛」・「二兵衛」と称された。
孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。
築城の名手として知られ、居住した中津城や福岡城の他、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城などに縄張りや助言を行った。
隠居後の号である如水とは、文字通り水の如くの清らかさや柔軟さを人生訓として用いた一方、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書のジョスエ(Josué)も引用しているとされる[8]。
城攻めの才能に共通点がある一方で、孝高は人を害する事は好まず、また魔女狩りのように寺社仏閣を害することもなく、晩年は再建に努めた大宰府天満宮内に草庵を構えている。
倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げる、城には天守閣を築かず矢倉で代用するなどで蓄財に励んだ。一方で関ヶ原の戦いで兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した(名将言行録)。
虎視眈々と天下を狙う野心家として描かれることが多いが、実際には主君を裏切ったことは一度もない。小寺政職は「裏切った」のではなく「裏切られた」のであるし、関ヶ原の合戦の際の徳川家康に関しても2人は同じ豊臣家の家臣であって主従ではなく建前上は同じ東軍であったから、敵対すらしていない。坂口安吾は「天才ではあるが、ただの戦争マニアであって野心は二流」と評している。
逸話 [編集]


この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2010年10月に貼り付けられました。

この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年10月に貼り付けられました。
荒木村重謀反のとき、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、村重方に寝返ったからだと判断し、人質として預けられていた黒田長政(松寿丸)を殺害するように命じた(村重と一緒に主君の小寺政職も裏切った事がこの疑念を助長している)。しかし竹中重治(半兵衛)は密かに長政を匿った。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。
秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に、己の座をも脅かしかねないものとして恐れたという。
本能寺の変で織田信長が死去したとき、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後孝高の智謀を恐れるようになったという。
『名将言行録』には「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」と記されている。
秀吉が多くの功績を立てた孝高に対して、大坂から遠く離れた豊前の中津でわずか12万5000石(検地後に17万石)しか与えなかった(加藤清正・福島正則ら他の子飼い大名と比べると小封と言える)のも、それを示していると言われる。
秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねた。家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、働き盛りの44歳の年齢で隠居し長政に家督を譲った。
文禄4年(1594年)の伏見の大地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。
小早川隆景とは仲がよかったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭がよく、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない。」と指摘した。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった。」と嘆じたという。もっとも腹蔵ない友人かというとそうでもなく、隆景は死の直前に「筑紫大名(如水のこと)が休息地を求めても貸すな」と周囲に諭している。
中津市の合元寺には、中津城内に旧領回復を目指して一揆を起こした城井鎮房が謀略結婚により呼び寄せられた際、多くの城井家臣が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという伝承がある。庫裏(くり)の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったと言う説もあり、城井家臣誅殺の悲劇性が赤壁と結びついて上記のような伝説を生んだ可能性もある
京都の聚楽第邸内の屋敷は千利休と隣り合い、茶道を学んでいる。
旧主の小寺政職の嫡男の小寺氏職を庇護したため、小寺氏は存続する事となった。
賤ヶ岳の七本槍に倣い、自分の家臣から24人の精鋭を選出して黒田二十四騎と呼んだ。そして、この24人の中でも更に優れた後藤基次や母里友信など8人を黒田八虎とした。
関ヶ原の合戦の後の長政による、家康は「我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ」と3度手を取りの感謝したという報告に対し、「何故空いた手で刺さなかった」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが後世の創作ともされ、現在のところ最も古い記述は大正時代の『黒田如水傳』までである。
関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある明石全登を、弟・直之の元で庇護したとされる。
筑前国福岡の地名は元は福崎であり、如水が祖父黒田高政の代から関わりが深く洪水で壊滅した、備前国福岡 (瀬戸内市)の地名にちなみ変更された。
晩年は家臣に対して冷たく振舞ったとされる。これは殉死者を出さないためとも、当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためとも言われている。


黒田藤巴紋
遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。
安楽寺天満宮(太宰府天満宮)復興の祖といわれ、境内には茶の湯で使用した「如水の井戸」が残っている。
黒田如水の遺品 [編集]

如水が使用したと伝わる遺品が現在も各地に残っている。愛用した兜「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」は、如水が死の間際に家臣である栗山利安にこれを贈っている[9]。この兜は後に起こった黒田騒動にて利安の子である栗山利章が盛岡へ流された後、盛岡藩主へ献上された[9][10]。現在この兜は同地にある盛岡市中央公民館に保存されている[9]。なお、この兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、永禄10年(1566年)、志方城の城主櫛橋伊定から贈られた兜である[11]。
如水所有の刀のうち数点も現在、福岡市博物館に保管されている。
刀 金象嵌銘「長谷部国重 本阿(花押)黒田筑前守」(名物圧切(へしきり)長谷部)(国宝)[12][9]
天正3年(1575年)7月、美濃国岐阜城にて織田信長と謁見した際に信長より贈られた。大磨上無銘で、本阿弥光徳が山城国の刀工長谷部国重の作と極め、茎(なかご)に金象嵌銘を施す。金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が付属する。
刀 備前長船祐定(安宅切)[13][14][9]
天正9年(1581年)11月、四国攻め#織田政権の四国進出の際に淡路国にて安宅河内守(安宅清康かあるいは安宅貴康)を攻めた折に安宅河内守を討ち取った時に使用したとされている。外装の金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が重要文化財に指定されており、金具類の作風から埋忠明寿の監修による製作と考えられている。中身は末備前の長船祐定の数打ち物で、茎に「あたき切」と金象嵌がある。
太刀 無銘一文字(名物日光一文字)(国宝)[15][16]
天正18年(1590年)の小田原の役の際に、降伏を勧めるために小田原城へ派遣された折に北条家当主の北条氏直より贈られた。葡萄文蒔絵刀箱(ぶどうもんまきえかたなばこ)が付属する。
また、小田原の役の降伏交渉の際に北条氏直から歴史書の『吾妻鏡』と法螺貝の北条白貝も如水に贈られ[16]、『吾妻鏡』は国立公文書館に[17]、北条白貝は福岡市美術館に保存されている[18][19]。
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【2010/11/07 16:30 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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