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【2024/11/28 09:29 】 |
踊る官兵衛
黒田 孝高 / 黒田 如水(くろだ よしたか / くろだ じょすい)は戦国時代、安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名である。豊前国中津城主。孝高は諱で通称の「官兵衛」並びに出家後の「如水」の号で有名である。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 出身
1.2 播州時代
1.3 織田家臣時代
1.4 豊臣家臣時代
1.5 関ヶ原の戦い
1.6 晩年
2 人物
3 逸話
4 黒田如水の遺品
5 関連作品
5.1 参考文献
5.2 小説
5.3 漫画
5.4 音楽
5.5 テレビドラマ
5.6 ゲーム
6 脚注・出典
7 関連項目
8 外部リンク
生涯 [編集]

出身 [編集]
黒田氏は、『寛政重修諸家譜』などによれば近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の武家出身とされるが定かではない。孝高の祖父・黒田重隆の代に播磨に入り、御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた西播最大の大名小寺政職に仕えた。政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺の名字を名乗らせた。
播州時代 [編集]
天文15年11月29日(1546年12月22日)、職隆の嫡男として姫路に生まれる。永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。永禄5年(1562年)、小寺政職の近習となる。この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。永禄7年(1564年)、浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ夫らとともに討たれる。
永禄10年(1567年)頃、孝高は父職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。永禄12年(1569年)、赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、300の兵で奇襲攻撃を仕掛け撃退した(青山・土器山の戦い)。
天正元年(1573年)、小寺氏など播磨の大名たちは、浅井長政を討ち、将軍義昭を追放し、畿内で勢力を拡大する織田信長と山陰・山陽に勢力を張る毛利輝元の2つの大勢力に再び挟まれることになった。天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田勝頼を破った信長の才能を高く評価していた孝高はいち早く主君・政職に織田家への臣従を勧め、羽柴秀吉の部下であった縁者をつてに岐阜城で信長に謁見。さらに近隣勢力も説得し、政職、別所長治、赤松広秀らを謁見させた。
天正4年(1576年)、亡命した将軍義昭を抱える毛利は小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を5,000の兵で攻め込ませるが、英賀に上陸したところを孝高は500の兵で攻撃し退ける。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。天正5年(1577年)の秋、信長は(信貴山城の戦いで)松永久秀を討伐した後に、羽柴秀吉に命じて播磨に進駐させた。孝高は居城である姫路城を秀吉に提供し、一族を父の隠居城である飾東郡の国府山城(甲山(98m))に移らせた。
織田家臣時代 [編集]
ところが天正6年(1578年)、播磨の大勢力である三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻し、これに対して信長が上月城の戦いから山中幸盛らを残し軍を撤退させると、それらに他の播磨の勢力は大きく動揺した。さらに織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。
このとき、主君の政職も呼応しようとしたために、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に捕縛されてしまった。1年後、有岡城は落城し孝高は家臣の栗山利安によって救出されたが、劣悪な環境の土牢に長期に渡って押し込められていたため左脚の関節に障害が残り、歩行がやや不自由になったと言う(『黒田如水傳』)。 このため、以後は合戦の指揮も馬上ではなく輿に乗って行うようになった。
天正8年(1580年)、秀吉は難攻の末にようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。村重の謀反の際、主君の小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている[1]。孝高は信長から播磨国の山崎に1万石を与えられ、秀吉の与力となって参謀として活躍するようになる。
天正9年(1581年)、秀吉は因幡の鳥取城を兵糧攻めで落城させた。策略により若狭などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。
また天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる[2]。
豊臣家臣時代 [編集]
高松城攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦し、光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる。山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。
天正11年(1583年)の秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。
天正12年(1584年)の前年より大坂城の縄張りに当たっていたが、小牧・長久手の戦いの時期には、外交に手腕を発揮し毛利氏と宇喜多氏の国境線を確定し、実質的に秀吉配下に加える。留守居役を務めていた長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。
天正13年(1585年)には羽柴秀長を総大将とする四国攻めに、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。
天正14年(1586年)、従五位下勘解由次官に叙任された。
天正15年(1587年)、九州の役では毛利氏などを含む羽柴秀長の軍勢の軍監として島津義久の軍勢と戦い、戦勝に大きく貢献している。九州平定後の6月、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡、およそ12万5000石(太閤検地後17万石)を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。しかし、7月に佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも城井鎮房・野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応する。長政・後藤基次らが鎮圧に一旦は失敗するが、その後、孝高はこれを鎮圧し和議・婚姻を結ぶ。しかし秀吉は国人衆を許さず、翌年4月には城井氏らを謀殺することとなった。
天正11年から13年頃に、孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、この天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。秀吉の側近である孝高の行いは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことがルイス・フロイスの書簡から窺える。
天正17年(1589年)、家督を嫡男・長政に譲って隠居の身となり、「如水軒」と号した(※これ以降は如水と記述する)。
家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原の役では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。このとき、北条氏直から日光一文字の名刀を与えられている。
文禄元年(1592年)から秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れなかった。和式城郭の縄張りや、第二次晋州城攻防戦において基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、文禄2年(1593年)には五奉行の石田三成との間に確執を生じ、秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家している。
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【2010/11/07 16:30 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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