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【2024/11/28 11:40 】 |
踊り268
中曽根康弘は、2008年9月3日付の読売新聞朝刊(13面)に、同年9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院して生命力もないという段階においてぎりぎりまで耐え抜いて後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最後までの志、執念を持つべき、と記した。
かつての大蔵省の門前の銘版は池田の筆によるものである[要出典]。
戦後の総理大臣の中で、東京都以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである(宇野宗佑は神戸商業大学中退)。
苦難の多い前半生もあって、大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。池田を「ディスインテリ」という造語で評した宮沢によれば、池田は「(本当はそんなことはないのだが)自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」。そのことが、高い地位にあっても、自然に周囲に有能な人物を集めることになった。
郷土広島愛が強く、広島カープ後援会の名誉会長を務め、南海入りが決定的だった山本一義を呼びだし熱心に説得してカープ入りさせたり[26][27]カープが負けると国鉄時代の豊田泰光の自宅に電話をかけ、「ワシは池田勇人じゃ。今日はよくもカープを負かしてくれたなあ」と脅したという。豊田は一国の総理が野球の試合結果について電話をかけてきたことにびっくり仰天したが、同時に自身が影響力のある仕事に携わっている喜びがこみあげたと話している[28]。
忠海中学校の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は竹鶴(当時寮長)に対して「こわい」という印象を抱いていたという。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続いた[29]。
栄典 [編集]

1965年(昭和40年)8月13日:贈大勲位菊花大綬章
家族・親族 [編集]

前妻・直子(元伯爵で貴族院議員だった広沢金次郎の三女、元参議広沢真臣の孫、昭和4年死去)
後妻・満枝(医師大貫四郎吉の二女、母の従姉妹の娘にあたる)
満枝は医者の娘で広島の名門山中高女、名古屋の金城女専を出た才女だった[30]
長女・直子(元近藤商事会長近藤荒樹の長男近藤荒一郎の妻)
神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』85-86頁によると、「長女・直子の嫁ぎ先は、戦後の“金融王”といわれた近藤荒樹の長男荒一郎。いわゆる庶民金融の草分けで、池田が岸内閣の蔵相として活躍していた昭和32年(1957年)頃は、高額所得番付で全国6位にランクされるほどの資産家だった。この2人の結婚は昭和33年(1958年)1月。当然ながら世間から、“池田は資金源を身内に入れた”と見られた。また、この婚姻で池田家は、荒樹の後妻が元伯爵の明治神宮宮司甘露寺受長の長女・績子という関係から旧皇族の北白川家まで繋(つな)がり箔(はく)をつけている。」という。
二女・紀子(官僚、政治家池田行彦(旧姓粟根)の妻)
三女・祥子(元日本ゴム会長石橋進一の長男で元ブリヂストンタイヤ会長石橋正二郎の甥にあたる石橋慶一の妻)
神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』86頁によると、「この結婚で池田家は、さらに閨閥を広げ、鳩山一郎、石井光次郎、三井財閥の団一族とも“血の連鎖”を結ぶようになった。」という。
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【2010/11/02 23:02 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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